06/21/2009(Sun)
大正時代(?)のホップ畑 ~ 「信州早生の父」

大正時代(?)のホップ畑。
「またそのねたか?幕末写真ジェネレーターだろ?」
ちがうんです。これは本物。

このブログを見てくれた長野市の荒木さんが送って下さった貴重な写真です。
今のようなフィルムが普及する前の時代。ガラス版の写真だそうです。
この畑は、今の長野県庁の近くとのこと。

これは、長野県の農事試験場の畑だそうです。
立派なホップです。

こちらが、現在の長野のバスターミナル近くにあったというホップの乾燥場。大正九年の建設だそうです。
おとなりの中野市にも、アサヒとサッポロの乾燥場がありました。ぼくの子供の頃の記憶にもしっかり残っています。

で、この写真が荒木さんのお祖父さんの、篠原武雄さん。
大日本麦酒会社の研究員として「信州早生」を開発し、県下のホップ栽培の指導にあたって
おられたそうです。
荒木さんのお話をそのまま引用させていただくと:
「信州早生」については「山鼻より白茎の雄を取り来たり、雌花は独種ザーツ」と記録にあります。家の言い伝え(?)では、祖父は故郷の佐久の野草だった「八重葎(やえむぐら・百人一首にも登場します)」が、ホップの原種に近いという発想から、長野県に適したホップが作れるはずだと思いついたということになっています。
とのこと。
その他にも。栽培のための機械を開発されたり、研究のためにミュンヘンやミルウオーキに行かれたりしたそうです。
アメリカ農水省からの、信州早生を新種と認めるという手紙も残っているそうで、まさに、
「信州早生の父」なんですね。
もともと、長野がホップの産地だったからこそはじめたぼくらのホップづくり。
ホップ摘みの経験がある大人はまわりに沢山いますが、こういう写真をみるとあらためて歴史を実感します。(それに、どの写真も本当にすばらしい。)
まして、「信州早生」を生み出したご本人の写真なんて、感慨無量です。
もしかしたら、今ではぼくらくらいしかやっていないかもしれない長野のホップづくり。歴史を実感して、あらためて頑張らなければと思いました。
信州早生も、きっと開発された当初に意図されたのとは違うタイプのビールで違う使い方をしちゃっているんでしょうが、ぼくらなりにその特徴が生きたビールをつくりたいと思っています。
荒木さん、本当に貴重な資料どうもありがとうございました!
| ホーム |
comments
「信州早生の父」なんて、うれしいです。
私はこのブログを拝見するまで信州早生の何たるかを知らなかったもので、お恥ずかしいしだいです。
祖父も草葉の陰で、いやいや、ホップの陰で喜んでいるでしょう^^
長年、人に愛されるものを作った祖父は、幸せな人だなあと思います。
自分が知らないだけで、こうしたさまざまな積み重ねが今の私たちの暮らしを作っているんでしょうね。
こちらこそ本当にありがとうございます。
ぼくらも、信州早生の可能性をもっともっと生かして、多くの人においしい、おもしろいと思っていただけるビールをつくっていきたいと思います!
手元にある『サッポロビール120年史』を見ていたら、信州早生についてこのような記述を見つけたので引用します。
--->
(明治)43年、篠原は笠原十司製麦係長の示唆により、ドイツ産のザーツ(Saaz)の雌にアメリカ系のホワイトバイン(White Vine)の雄を交配した。得られた種子を翌年播種し、このなかからきわめて優良なものを45年に選抜、育成した。翌大正2年、篠原はこれを「ドイツ種」と称し、多品種とともに長野に移して試作した結果、成績が非常によく長野県の気候風土に適していることがわかった。篠原らは6年にこれを「信州忽布」と命名し、会社直営の試作地を穂積村に開設して、この増殖を図るほかヨーロッパ系、アメリカ系の品種を試植した。8年には大日本麦酒は信州忽布を「信州早生」と改名し同地で契約栽培を開始した。
<---
文中の「山鼻より白茎の雄」というのが、札幌・山鼻地区にあったホップ畑からホワイトバイン種を取った、という意味とわかり、ちょっと興奮しました。信州早生のルーツがここまではっきりしていたとは知りませんでした。
なお、篠原武雄氏については、こう解説されています。
--->
ホップ育成に大きな業績を残した篠原武雄は、札幌工場精麦係に属する一定夫(現場作業員)であった。大日本麦酒はすでに退職していた篠原に対し国産ホップ自給を達成した昭和17年に、金一封(500円)を添えて特別表彰を行い、その功績を讃えている。
<---
p.s.
今年も「フォレスト」にご参加くださり、ありがとうございました。
こちらこそ、貴重な情報どうもありがとうございます!
今後ともどうぞよろしくお願いします!
post a comment